<医療過去未来>安楽死を考える……感情論ではなくまず議論をしてみよう⑤

●安楽死容認国でも微妙な認知症患者への対応


 厳密に言えばその成立過程に違いがあり、単純に理解されているベネルクス3国やカナダの安楽死について考えてきた。読者には、各国の制度の詳細な説明、2010年以降のオランダなどにおける「いわゆる安楽死の実態を示すデータ」などの提示が少ないという指摘を受けそうだが、松田純氏の著書『安楽死・尊厳死の現在』(中央公論新社)、盛永審一郎氏の『終末期医療を考えるために』(丸善出版)、『安楽死法:ベネルクス3国の比較と資料』(東信堂)などに詳細に報告されている。制度、データに関しては、こうした図書にアクセスしてほしいと思う。ここでランダムに、中途半端な整理で無秩序に表記していくことは控えたい。


 このコラムの筆者が述べていきたいのは、前回にも触れたが、オランダなどで論議が続いている「すべり坂」について、日本国内では「尊厳死」の段階ですべり坂が始まってしまうのではないかという懸念だ。すべり坂は、「安楽死」が独り歩きしてしまうと、患者の非自発的な“安楽死”が増えてしまうのではないかということ。つまり、患者の意思でないところで、安楽死が適用される危険だ。


 そこに異議が生まれなくなるか、あるいは黙過してしまうことが常態化すれば、医療費面での動機(年齢による差別、受益者負担原則の適用、所得による差別、疾患による差別)による「尊厳死」の強要につながらないか。あるいは世界的にみれば、人種やマイノリティへの差別をベースにした「安楽死」を拡大しないかという懸念が大きくなるのだ。


 これまでに説明したように、オランダなどでは、「患者の権利」が明文化され、国民にも一定の理解が浸透している。「患者の権利」には「治療を受けない権利」も含まれる。治療を受けない人々に、医療サイドからの支援をするのがオランダなどでの「安楽死」であると要約してもいいほどだ。


 日本では、こうした「患者の権利」に対する関心は医療者、政治、患者(国民)にも希薄だ。むろん明文化された制度もなければ、医療者にもそれをコンプライアンスにする努力を払っている形跡はない。認識としても、構造としても成熟していないのだ。本質的議論はとば口にも達していない。それなのに、「尊厳死のすすめ」だけが大手を振って歩き、未熟なままの「尊厳死」が、「家族に迷惑をかけたくない」「次代にツケは残さない」という動機をもとに、世の中に同調圧力として蔓延り始めている。すでに「国民的常識」になっているのかもしれない。安楽死まで行かずとも、尊厳死ですべり坂が現出しかけている。


 すべり坂で誤解されるのが緩和医療だが、日本では緩和医療はがん患者(エイズやALSなどもある)だけに与えられる特権的医療支援である。筆者は、現実に疾患による差別が堂々とまかり通る状況に誰も疑問を挟まないことが不思議だが、緩和医療はそれを先導し、研究してきた医学者や医療者の努力もあって、「すべり坂」ではない。


 筆者は、これまでの緩和医療の熟成を問題にしているのではない。緩和医療で論議されてきたさまざまな患者の権利や、患者ファーストの発想がどうして他の疾患に波及していかないかという疑問を鮮明にしておきたいだけだ。他の「死にゆく疾患」に緩和医療の技術と精神が適用されないから、がん患者は特権階級になった。


 高齢者の多くが、「どうせならがんで死にたい。認知症は嫌だ」という想いを持つのは、がんに対する心身のケア実態と認知症のケア実態のイメージにも由来している。在宅で、地域のコミュニティで、老衰でというのが一方の理想なら、そこには認知症も入るだろう。認知症の人びとを穏やかな最期へと向かわせるような「緩和医療」はないのだろうか。「緩和医療」はそこまで踏み込む必要はないのか。


 緩和ケアやがんの専門医以外は、緩和ケアに対する関心が薄いとの報告は未だにみられる。死に瀕している患者が多い集中治療室では緩和ケアの入り込む隙はないとの論考も読んだ記憶がある。当たり前ではないか、「救命」を目的とするICUが緩和ケアを考えたら「負け」ではないかという反論が聞こえてくる。だが、医療者が「負け」るのと、患者が「勝ちたくない」意識は、現場では交り合い葛藤していないと言い切れるのだろうか。そういう話だけでも、緩和医療は現況で、ほぼがん領域だけで浮いているままだ。


●ストックの役目を果たすリビングウィル


「非自発的な安楽死」への警戒は、当然ながらオランダなどでは関心の強いテーマだ。しかし、緩和医療が「死を迎え入れる準備」として成立しているなら、患者は多くが平穏に旅立つことができるだろう。「平穏死」はその意味で、状況は限局される。平穏死を尊厳死と同じイメージで語るのも、筆者には違和感が強い。ただ、ここでは、とりあえず「緩和医療」ではすべり坂を懸念する必要はないとしておきたい。


 オランダなどで、安楽死の許容に際してすべり坂論が台頭したのは非自発的な死を防ぐ観点から当然だが、日本での「尊厳死」ではすべり坂議論が起こっていない。しかし、尊厳死の奨めでもすべり坂を下るためのストックが準備され、それは一大ブームとなっている。事前指示書、あるいはリビングウィルと呼ばれるものだ。


 世界でも冠たる高齢化が進む日本では、平均寿命の伸長のなか、認知症がかなりの速度で増えている。2016年の高齢白書(内閣府)では、2025年に700万~800万人、50年には1000万人に達するという推計が示されている。高齢者のなかで認知症になる人の割合も拡大するとみられ、現在は65歳以上高齢者の7人に1人程度の割合が、25年には5人に1人という推定だ(ただ、この数字は糖尿病慢性疾患の克服で改善されるとの見方も有力)。


「死ぬのならがんで死にたい。認知症は嫌だ」という国民感情は、家族への負担や長引く治療と医療費への遠慮、平穏な生活を保障するケア技術の未熟さのイメージによって形成されているが、国内では制度的にも法的にも何の根拠もない「事前指示書」。「リビングウィル」が、認知症患者にはどのような効果を持つのだろうか。


●強制的に認知症患者を“安楽死”させたケース


 オランダでも、認知症になりたくないという高齢者の感情は日本と似たようなものであるらしく、「安楽死」の許容で、まだ判断能力のある段階で安楽死を求める事前指示書を作成する人が増加した。松田純氏の『安楽死・尊厳死の現在』によれば、オランダでは家庭医と患者の親密な信頼関係が構築されていることが前提だが、口頭要請もあるなかで、15年に地域安楽死審査委員会が書面による意思表明書の取り扱いを規定し、患者が自分の意思を伝えられなくなった場合、医師は口頭要請の代わりに表明書を用いることができるようにした。


 そして16年にオランダ政府は、安楽死に関するガイドラインを改定し、重度認知症患者の意思表明書があれば安楽死を認めることにした。一方で、こうした緩和策は、一部に強い懸念も存在していたようだ。


 そんなとき、16年4月にある女性医師が、74歳の認知症患者に強制的に致死薬を注射して死なせるという事件が起きた。患者は健常時に意思表明書を書いていたが、事件時にはBPSD(認知症の行動と心理症状)の症状を呈していて、医師の行動に抵抗した。医師はBPSDは「患者の苦痛のしるし」として、許容要件のひとつと解釈したが、安楽死実行時には患者の意思は明確ではない。


 こうして、この問題は事件化、これを契機にオランダでも認知症患者に対する安楽死の施行は慎重な世論が形成されていると聞く。とくに、医療費や介護費用などの財政問題が認知症患者の安楽死増加の要因ではないかとの見方も浮上した。尊厳死の事前指示書は、同様の問題、あるいは事件を引き起こす可能性が予見できる。


 オランダでの議論などを見ながら、この事前指示書とへの安楽死の関係、尊厳死との連絡への妥当性などを、次号で考えてみる。(幸)

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