〈医療過去未来〉安楽死を考える……感情論ではなくまず議論をしてみよう⑥

●事前指示書は医師にとって恥ずべきこと


 安楽死、尊厳死など、筆者からみれば国内では定義も概念も不統一である。認識の不確実さ、曖昧さに満ちている言葉がすでに独り歩きし、多くの人々の間に「勝手な解釈と思い込み」による「常識化」が進んでいる。


 それは、このシリーズで何度も繰り返したように、日本では個々の死生観の尊重というより、少子高齢化における莫大な高齢者福祉に対する費用の問題、家族を含めた介護の問題(誰が介護するのか)から根ざし、動機となっている。とてもではないが、筆者は、これを健全な社会的合意を目指す論議とみなすことはできない。


 ベネルクス3国のように、安楽死について個々の死生観を大事にし、それを医療がサポートするという考えに対し、日本では迷惑はかけたくないが、それをサポートする状況がないにもかかわらず、「延命医療を望まない」ことを国民的合意にしようというムーブメントにし、進行させている。患者の権利の論議の不十分さと認識の浸透の不十分さが放置され、医療的サポートも、医療者の共通化された認識もないままで。


 何もかも「不十分」な状況のなかで、そうした周辺論議をおきざりにしたまま、進んでいるのが「リビングウィル」。専門家間では事前指示書ということが通例になっているようだが、要は心身ともに健康なうちに自らの死に方を文書等で明示し、家族や信頼のおける第三者にそれを託すということだろうが、筆者の周りでもそうした行動をとりたい人は増えた。医療関係の報道に携わってきたという経歴もあるのか、そうした希望を相談してくる人も増えた。


 私の回答は「わからない」の一点張りだ。相談する人に共通するのは、「迷惑をかけたくない、家族や次代への負担になりたくない」という1点だけで、それはすでに常識というより、プレッシャーになっている印象だ。延命医療に対し、自らがそれを望まないと発信することが今の日本では、まぎれもない正義になっている。


 著書『安楽死・尊厳死の現在』で松田純氏は、事前指示書が抱える問題点を以下のように挙げている。

① 執筆は自己決定だが、実行は自己決定できない

② 事前指示書によって、過去の決定が将来の扱いを拘束する

③ 指示内容が曖昧であると、実行できない

④ いざというときにそこにない

⑤ 法的に制度化されることによって生じる社会的プレッシャー

⑥ 本人が認知症になった場合、症状が進行する前の意思が尊重されるのか、それとも現在の意思が尊重されるのか


 筆者は、主として現状はすでに⑤の問題に付き当たっているのではないかという前提でこの論を進めている。制度化がさらにこれに輪をかけるのは自明で、逆に言えば、世論、社会的合意が先行している以上、市民側を意識した制度化への障壁は低いはずで、問題はそれをカバーする、サポートする周辺の制度整備しかない。市民意識が先行している以上、非常に乱暴に言えば、医師の責任を問わない制度をいかにつくるかに課題は簡単にフォーカスされてくると思える。


●生き続けたい患者も存在する


 松田氏が指摘した6項目については、同氏の著書に詳細に説明が付してあり、ここでそれを紹介することはしない。しかし、やはり大きな問題は⑤であるという観点に立って眺めてみよう。実はこうした事前指示書の「すべり坂」に関しては、日本ALS協会などの患者団体からも懸念は示されている。


 同協会は2012年に尊厳死法案に反対する立場から声明を出しているが、「もし、治療を断るための事前指示書やリビングウィルの作成が法的に効力を持つようなことになれば、ますますこれらの患者は事前指示書の作成を強いられ、のちに治療を望む気持ちになってもそれを伝えることが困難になるため、書き変えはことごとく阻止され、生存を断念する方向に向けた無言の指導(圧力)を受け続けることが予想できます」と述べている。


 松田氏もこの声明に関して、「日本の現状を考えたとき、『死ぬ権利』が『死ぬ義務』へと転換する危機感」だと言う。よくよく考えれば、たいそう恐ろしい話になるが、ことに現状では不可逆的と考えられている難病や希少疾患では、今後の医科学の進歩には期待できる分野が少なくない。漠然とでも、そうした進歩に期待する患者の立場に立てば、やみくもな事前指示書の作成圧力は、ブレーキをかけるときではないか。同様の指摘は12年に、日本弁護士連合会も会長声明を出して、危機意識を表明している。


 筆者は、わかりやすさの点で、患者団体や日弁連の主張が今こそ、国民に浸透されるべき時代ではないかという思いが強い。それは高齢化に伴う費用負担の問題が、あらためて強調される世論が速度を上げているように思えるからだ。その速度へのブレーキが必要なのだ。


 現状でやはり最も具体的な課題は、松田氏の指摘する⑥であろう。事前指示書の存在する認知症患者の症状の程度をどうみて、どのように判断するのかは今後、大きな問題を孕む。すでに、松田氏が示した具体的な仮想事例に対しては、医師の一部からも見解が示され始めている。


 仮想事例は、80歳代の女性が軽度の認知症になった時点で、「症状が重くなり、自分が何もわからなくなったら、延命医療はしないでほしい。肺炎になっても抗生剤の投与はしないでほしい」との事前指示書を書いた。その後、彼女の認知症は進んだが、生活は穏やかに過ぎた。あるとき彼女は肺炎になったが、抗生剤を使えば治癒の可能性のある肺炎だった。


 さて、この場合、どうするかというテーマ。ここでは、過去の人格が彼女の死を決定するのか、現在の状況を誰かが判断するのかという問題が浮上する。米国の哲学者、法学者の間でも論議されてきたテーマで、見解は「過去の人格を尊重する」と、「判断能力が重篤に低下した状況では、その人の利益や関心は根本的に変化しており、ゆえにそのときの周囲の判断が優先される」という考え方だ。


 現状では松田氏や、これについて見解を述べている医師などは、後者の立場が多いように思えるし、筆者もそれは当然だと思う。しかし、この問題はたえず論議し、社会の表面に出しておかなければならない問題である。リビングウィル、事前指示書の問題は、非常に現状では軽く扱われ過ぎているという指摘を、くどいがしておかなければならない。日本ではまだ、そうした仮想事例に沿ったテーマでさえ、まともには議論されていないのである。


 そもそも高齢者になったら、事前指示書を書いておくべきだという世論誘導からしてミスリードである。⑥の問題は、突き詰めれば、「だったら、事前指示書など意味がないではないか」という課題も提起する。つまり、議論はそこから始めなければならないということなのである。


 前述したように、米国では09年に当時のオバマ大統領の医療保険制度改革をきっかけに、事前指示書が大きな論議となった経緯がある。オバマ陣営は「医師は終末期医療相談(事前指示)に責任を持つべき」との提案をしたが、当時の共和党幹部らを軸とした反対派は「死の委員会」の設置につながると非難、結局提案は見送られた。


 アイルランドの著名な消化器専門医のシェイマス・オウハマニーは、著書『現代の死に方』で、この共和党員らによる非難は馬鹿げたものだとしながらも、事前指示書については懐疑的な主張を述べる。


「事前指示書は、私たちが、将来のいつかわからない時点での、予想できない病気の治療を自分で細かく管理できるという幻想を永続させるものである。(中略)事前指示書への期待は、自殺ほう助とともに、高齢者を現代医療から保護すべきとの考えを活気づけている。ごく一部は当たっているとしても、それは全体としては恥ずべきことだ。患者が医師を信頼せずに安らかな死を邪魔する者とみなしてしまい、私たちは職業人として、たいへん困った事態に立ち至った。おそらく私たちは、事前指示書を必要悪として、また、私たちが高齢者と死が近い患者を同情と良識をもって治療し損なった結果として、受け入れざるを得ないのだろう」


 安楽死、尊厳死の根本を構成する事前指示書は、やはり積極的な医師の参画も入れた広範な議論が必要なテーマである。医療費を抑制するための安易な方便であっていいはずはない。次回は、基本的な整理を示して、このシリーズを終えたい。(幸)

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