昔人の物語(61) 渋沢栄一「商売に道徳を」

① 論語と算盤


 2024年から渋沢栄一の1万円札が出回る。過去に何度も紙幣の肖像画候補になったが、髭がないため採用されなかった。偽札防止のためには髭やしわがある顔のほうが、有効だからである。同じ理由で、女性も敬遠された。日本では、女性紙幣は明治時代の神功皇后だけであったが、印刷技術向上によって、2004年に、樋口一葉の紙幣が誕生し、2024年から、「髭のない」渋沢栄一が登場する。


 渋沢栄一(1840~1931)の92年間の生涯は、おおむね4つの期間に分けられる。


 第1期は、反幕府の尊王攘夷の志士から、一転して一橋徳川家に仕官し、幕臣となった青年期。言うまでもなく、一橋徳川家は、御三卿のひとつである。


 第2期は、明治2年(1869)に新政府に迎えられて、民部省租税正(そぜいのかみ)、大蔵省大丞(だいじょう)を歴任した時期。大丞は省内ナンバー4にあたる。


 第3期は、明治6年(1873)に退官して、第一国立銀行を発足させ、実業家の道を歩んだ時期。第一国立銀行は、日本最初の近代的銀行である。第一国立銀行だけでなく、極めて多くの企業の創業と経営に関与した。その数、約500と言われている。そのため、「日本資本主義の父」と称されている。


 第4期は、明治42年(1909)、70歳の古希を迎えたのを機会に大部分の関係事業の役職を辞任し、民間親善外交、福祉、教育などの社会活動に専念した。生涯を通じて、約600の社会事業に関わった。ノーベル平和賞の候補にもなった。


 渋沢栄一の生涯を4つに分けても、そのなかで最も光輝くのは、『論語』から導き出した「道徳経済合一説」を信条とし、「日本資本主義の父」として活躍した経済人の姿であろう。


 ここで、老婆心ながら、儒教に関して若干の説明をしておきます。世間で言われている儒教には2種類ある、と考えたほうがわかりやすいと思います。


 ひとつは、孔子の『論語』で、素朴な教訓的儒教です。


 もうひとつは、中国南宋の朱熹(1130~1200)が作り上げた朱子学である。朱熹は儒教・仏教・道教などを混合して、壮大な体系をつくりあげた。朱子学は、君臣秩序を第一とする封建時代のイデオロギーとして隆盛した。


「素朴な『論語』儒教」と「朱子学」は、別モノと理解すべきものと私は思う。時々、論語が云々、孔子が云々、儒教が云々と言いながら、いつの間にか、君臣秩序、すなわち「上に従うことが絶対善」といった論理を見聞きする。


 お札で渋沢栄一が流行になる。それが儒教の顔をした朱子学の流行にならないことを望む。


 渋沢栄一は、大正5年(1916)に『論語と算盤』を著した。これは朱子学ではなく、素朴な『論語』儒教をベースに、道徳と利潤の両立を主張したものである。道徳を無視した詐欺的商才はよろしくない。利益・富は独占するものではなく社会全体で共有するもので、積極的に社会還元をしましょう……そんな内容である。渋沢栄一の「道徳経済合一説」を端的に述べた文章は次のものであろう。


 富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。


 そして、数々の名言・格言となっている。そのなかの2つを掲げておきます。


 商売をするうえで重要なのは、競争しながらでも、道徳を守るということである。

交わってためになる友を近づけ、損になる友を遠ざけ、かりそめにも己にへつらう者を友としてはならない。


 しかし、昔も今も、汚職、虚偽表示、改ざん…等々、跡を絶ちません。願わくば、渋沢栄一紙幣の副次的効果として、道徳経済が色濃く流行らんことを。


 なお、渋沢栄一は政治に関しても、道徳経済合一説の政治版を頻繁に語っている。当時の政界は汚職にまみれていたので、言わざるを得なかったのだろう。


「国家は、その政治が第一に善くなくては、経済も発展せず」


「政治は道徳であり、政治は正義である。今日の政治においては、道徳正義などということは、いずこにあるのか。すでに根本が壊乱しているにもかかわらず、綱紀粛正を希望するのは、むしる片腹痛い話である」


 しかし、トップ経済人である渋沢栄一が政治に道徳・正義を訴えても是正されることはなかった。そして、やがて、戦争への道となっていった。


② 視野が拡大


 トップ経済人となった渋沢栄一は道徳経済合一説を中心に立派な言葉を述べている。しかし、若い頃の彼は、反幕府の尊王攘夷の志士、一橋徳川家の家臣、明治新政府の高級役人という二転三転の姿を見ると、こんな疑義を持ってしまう。


「偉そうに道徳だ、正義だと言ったところで、渋沢なんて、信念などなく要領がよいだけ。もっとも商才はあったに違いない」


 確かに、彼の第1期~第2期の略歴から、政治的風見鶏、浮気者、変節漢の感想を抱くのも至極もっともなことかもしれない。しかし、青年期の成長の過程と見るべきだろうと思う。


 天保11年(1840)、栄一は武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)、現在の埼玉県深谷市血洗島の富裕農家兼商人の長男として生まれた。


 血洗島(ちあらいじま)――なんと申しましょうか、吸血鬼の根拠地のような、すごく恐ろしい地名なので、若干の解説をしておきます。定説はなし。


(a)赤城山の山霊が他の山霊と戦って片腕を大ケガした。そのケガを洗った。渋沢栄一が伝説として語っている。

(b)源義家(八幡太郎義家)の家臣が、戦いで片腕を大ケガして、ここでケガを洗った。

(c)血洗(けっせん)はアイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」、その意味は「岸、末端、はずれ、尻」で、東北・北海道に存在する地名、気仙沼(ケセンぬま)沼、厚岸(あつケシ)と同類。

(d)利根川の氾濫地域で、「地洗い」「地荒い」だったものが、「地」→「血」に変化した。


 さて本筋に戻って……。


 時代はペリーの黒船来航(嘉永6年=1853年)、安政の大獄、桜田門外の変、和宮降嫁と激動が続く。幕末に世論調査すれば、政治に大いに関心あり層は、「尊王攘夷・幕政改革」が90%以上の圧倒的多数であろう。そんな時代だから、渋沢栄一も疑問なく尊王攘夷の志士となる。


 そして、同志69人で、高崎城(現在の群馬県高崎市に所在)の乗っ取り、横浜の外国人皆殺し計画を立案する。尊王攘夷の志士のなかでも超過激派で、現代ならばイスラムの超過激テロリストである。軍資金150両は渋沢栄一が家業の手伝いをして貯めたものである。しかし、京から帰った同志が、「公武合体論で幕府は力を盛り返した。百人足らずの人数では、簡単に鎮圧されて犬死だ」と中止を主張した。激論の末、中止となった。


 ここまでの渋沢の視野は、地理的に言えば「関東だけ」のものであった。


 テロ計画は中止になったが、テロ計画は発覚し、幕府の探求が始まる。渋沢は追手をかわすため京へ行く。その際、逃亡道中の安全のため、交友関係のあった一橋徳川家の用人・平岡円四郎から関所の手形を用意してもらう。一橋家の当主は徳川慶喜であり、安政の大獄で隠居謹慎処分されたから、色分けすれば尊王攘夷派なのだ。


 なお、平岡円四郎(1822~1864)は、一橋慶喜の信任が厚く、実質的な慶喜の対外交渉の担い手であった。公武合体の黒幕とみなされ単純尊王攘夷派から憎まれ暗殺された。


 京の渋沢栄一は、日夜、諸藩の志士と「日本をどうすべきか」を議論した。みんな尊王攘夷派である。そうではあるが、「単純明快な外国人皆殺し」から「軍艦や鉄砲は段違いだ。外国の技術は認めて学ばねば」まで、いろいろあることを知る。さらに、みんな「尊王攘夷のため幕政改革」である。「神君家康公の時代に戻せ」なんて者はひとりもいない。みんな幕政改革者なのだ。でも、「雄藩連合」から「英明なる一橋慶喜を中心に改革」までさまざまだ。


 渋沢は京において、「尊王攘夷にも幅がある」ことを次第に悟るようになった。つまり、視野が「全国的」に拡大されたのだ。


 視野は拡大されたが旅費が底をつき、鼠まで食べる始末。しかも、渋沢の「反幕府の手紙」が幕府役人に渡り、完全な窮地に陥る。


 そのとき、平岡円四郎からの誘いがあり、一橋家に奉公することになった。むろん悩んだが、「徳川一門でも一橋家は尊王の家。尊王の慶喜を中心に、外国に負けない新体制を」という結論に達した。一橋家の勘定組頭として商才を発揮して収益を急速に向上させ、渋沢は一挙に「理財の才人」として注目された。


 そうこうしているうちに、慶喜が第15代将軍になった。そして、パリ万国博に慶喜の名代として異母弟・徳川昭武(あきたけ)が訪問することになり、随行員を命ぜられる。当時の日本人には、欧米で近代文明に接すると、完璧な開国主義に変身する者が多かった。渋沢のそのひとりで、渋沢の視野は「世界的」に拡大された。


③ 改革実行


 欧州の地にいたら、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の合戦の知らせが届く。帰国したら、明治新政府の時代になっていた。


 慶喜は静岡で謹慎中の身の上である。徳川宗家は、田安亀之助(徳川家達)が家督を継いだが、駿河・遠江・三河の70万石になっていた。これを静岡藩という。渋沢の心境「尊王攘夷の志士として活躍するはずだったが、心ならずも幕臣となり、その幕府もつぶれて失業武士として静岡にいる」ということだったが、一応、身分は静岡藩士である。


 渋沢は欧州で得た株式会社の知識を、すぐさま実行に移したかった。そこで、静岡藩を辞職し、日本で初めての株式会社「商法会所」を設立した。最大出資者は静岡藩で、いわば半官半民の銀行兼商社のようなものであった。


 経営が軌道に乗ったとき、新政府の大隈重信から呼び出し命令が来た。何事かと東京へ行くと「租税正に任ず」という辞令を渡された。突然のことで、ビックリ仰天。固辞すると、大隈は「慶喜の元家臣が新政府に出仕することが慶喜のためになる」と情にからめた説得。さらに、「民業が発展するには、国の予算制度、統一貨幣、金融制度、税制度などを整える必要がある。八百万(やおよろず)の神々の一柱となって国づくりに参加してほしい。君の民業はそれからでも遅くない」と天下国家にからめた説得。渋沢は大いに感銘する。内心、「国家は、その政治が善くなくては、経済も発展せず」と思っていたから、大隈の要請を承諾した。


 かくして、国づくりの任についたが、省内はやたらと忙しく、何事も中途半端、意欲だけが空周りする。そこで、渋沢は人材を1ヵ所に集め、集中的に改革事業を作成する「改正掛」なる新組織をつくる。メンバーは、たったの12~13人である。しかしこれによって、怒濤の如く諸事業が作成され、それがことごとく実行されていった。新政府および日本中に、実質的改革、蛮勇がふるわれたのである。渋沢の新政府における最大功績は、「改正掛」をつくったことであると評価されている。


 具体的には、統一貨幣、全国測量、度量衡の改正、租税の改正、駅伝法改正、鉄道敷設、諸官庁建設など200にのぼる国家基盤に関わる案件に着手した。


 また、日本の最大輸出産物である生糸産業のため、群馬県富岡に洋式製糸工場を建設する。このとき、高崎城乗っ取り、外国人皆殺しの謀議の仲間が建設に関わっている。渋沢もかつての過激攘夷の志士も、外国から学び、フランス人技術者から技術を教わる境遇になった。過去を振り返れば、大きな感慨はあっても、ため息や惑いはなかった。表面だけなら、風見鶏・変節漢であるが、変身の根底には、決定的な「視野の拡大」があり、それに基づく新日本への先見性やビジョンが確立されていた。その信念があったからこそ、古い上着とサヨナラして、蛮勇をもって改革できた。


 余談であるが、現代のリーダーの地位にある人のなかには、明治時代は海外の先進国モデルがあったが、今は、不透明、海図なき時代だから、そう簡単ではない、といった言をなす者がいる。それは、単なる不勉強・無能力を告白しているだけである。


 ボヤキは止めて……。


 明治新政府のなかで、すべてが渋沢の思惑どおりに進行したわけではない。大久保利通(1830~1878)が「4000万の歳入から約3分の1を軍事費に」と言い出した。渋沢は猛反対したが、大久保はあっさり決定してしまう。それが原因で、渋沢は井上馨(1836~1915)と連名で財政に関する建白書を提出して辞職する。


 その後の渋沢は、周知のように民間経済人として大活躍した。


 前述した第一国立銀行(→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行)だけでなく、幾多の企業の設立・経営に関与した。多くの地方銀行、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市(→東京急行電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製菓、渋澤倉庫などである。


 そして、晩年は様々な社会活動に活躍した。道徳経済合一説を率先実行したのである。


④ 一夫多妻


 道徳も時代によって変化する。典型的には結婚で、江戸時代から明治・大正・昭和(戦前)にあっては、富裕な男性は一夫多妻が当然視されていた。正妻は一人であるが、側室・妾・愛人は何人いてもよかった。むろん、富裕であっても、一夫一妻のラブラブ夫婦もいた。


 基本的に家と家の結婚であるから、愛や器量は無関係である。上杉鷹山の正妻は知的障害者であるため、必然的に、側室が必要となった、そんなケースもあろうが、大半は「女好き」ということであろう。


 渋沢栄一は、「女好き」の一夫多妻のケースである。商売の「道徳」を盛んに述べても、男女の道徳は一言もない。それだけ、一夫多妻は当然視され、道徳的に非難されるものではなかったようだ。それどころか、何人もの妾を囲っていることは、富裕の証明であり信用力にもなった。


 渋沢栄一の正妻・後妻には、7人の子供がいる。妾(恒久的愛人)で名が判明している女性は1人だけのようだが、数人いたようだ。短期的愛人というかセックスガールというか、その数は多かったと噂されている。艶福家であったことは間違いない。妾・愛人の子で父親が認知した数は、4~5人で、それは名前も判明しているが、他にもいるようだ、ということらしい。


 まったくの余談であるが、渋沢栄一がらみの「M資金」話に遭遇したことがある。渋沢栄一は道徳の人だから、妾にもしっかり財産を残した。妾の子に所有権はあるのだが、渋沢同族会にばれるとマズイから秘密裏に売却したい。場所は、都内のJR△△駅近くの〇〇会社の工場用地、非常に広大な面積である。内緒の売買だから、超格安。こんな話が発生するのも、渋沢栄一が艶福家であったためであろう。


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太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。

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