<医療過去未来>安楽死を考える……感情論ではなくまず議論をしてみよう⑦

●医療費を理由にする人に発言権はない


 尊厳死、安楽死について一足飛びに是非を問うのではなく、まず議論をしないかというのが、この論考の動機だ。そして、その理由は、少なくとも2012年頃に、欧州の一部における安楽死容認(こうした一括りは実は乱暴であり、少なくとも安楽死、自殺ほう助の線引きは海外でも各論あり、また見解は多様である)の動向を掬い取って、超党派の議員連盟が発足し、「尊厳死法案」の立法準備を始めたことから、論議が始まっているという意見があるのは承知だが、その議論自体、熟しているのかどうか。また方向が間違っていないのかどうかの検証が必要なのではないかということである。


 12年から14年にかけて一部大手新聞のオピニオン的な議論の誘導、あるいは公共放送のやや感情的なレポートなどで、最初に賛否が集約的に問われ、そこからリビングウィル、事前指示書への、筆者からすれば非常に不透明なジャンプ期間を経て、現状は「尊厳死」肯定に世論は流れている、ようにみえる。


 結論から言えば、この流れは早すぎるし、そこにいたずらに拘泥するわけではないが、もう少し日本的な、東洋的な死生観、文化背景と科学的な方法論の融合などの提案を待つ時間はないのかと問いたい。


 死生観に関する論議は初めてではない。臓器移植法案に端を発した「脳死」の問題が浮上したときのほうが、今よりも濃厚に文化的、哲学的、思想的に「日本人の死生観」が語られ、論議されていたように思う。尊厳死より構図が明瞭だったのは確かだ。


 医師を中心として脳死移植に積極性を持つ科学の世界側と、脳死を死として受け入れがたい市民グループ(そこに多くの文学者や哲学者、宗教学者が積極的に発言した)、そして両者の言い分もよく理解している国民という位相がかなり輪郭としてはハッキリしていた。また、「なくなりかけている2つの命のひとつは助けられる」という希望的なモチベーションが、その議論に含まれていたことも否定はできない。


 しかし、尊厳死、安楽死の議論には何度も指摘してきたが、どうも脳死論議のときよりも夾雑物が多いことは認める必要があると思う。その最大のものは「医療費」という経済問題である。


 今年に入って若い社会学者らが、医療保険制度の維持の観点から、医療経済を理由として安楽死まで議論を拡大し、さらには終末期の1ヵ月は保険適用しないなどという暴論を示している。人が死ぬまでの残り1ヵ月を予測できると考える論議する余地もない話だが、こうした暴論がメジャーな文学雑誌のテーマとして登場し、批判もなしに掲載される時代が来ているという自覚は必要だ。筆者はそうした議論は取り合う必要がない、まとめてゴミ袋に入れ、清掃業者にでも託すべき話だと思うが、そうは考えていない人が多いことは頭の中にとどめておかなければならない。


 この医療経済を尊厳死論議に混ぜ込む話は、政府サイドにも強力に存在している。一つひとつを取り上げることはしないが、政府の財務を所掌する政界のトップリーダーのひとりは14年以後、折をみて延命医療を続ける患者の批判と受け取れる品のない話で、話題をつくってきた。「言い過ぎた」と発言を撤回したり、謝辞したりしているが、何度も繰り返すところをみると、この大物政治家はやはり尊厳死議論に乗っかって、医療費の増嵩に歯止めをかけたいという意志は相当に強固にお持ちなのだと考えざるを得ない。


 この医療経済的アプローチは、小泉政権時代に政策の中核となった聖域なき削減、新自由主義的な経済学派の流れのなかにあることは間違いないのではないか。先に触れた、若手学者の「延命医療最後の1ヵ月自己負担論」は極端な話だとしても、混合診療の手法のひとつをアレンジしたものであることは当然である。


●法治関係者は「その後」の制度整備にのみ役割果たせ


 日本で、安楽死や尊厳死に関する議論が国民的議論として立ち上がらないのは、法的論議への入口で、多くの法律関係者ではない人々が立ち止まるからではないだろうか。逆に言うと、国内ではこうした論議は法的専門家の考えに委ね、専門家ではないからと立ち止まる人が多いためではないか。


 欧米での安楽死論議は、大抵が患者と医師の関係のなかから議論が始まり、法的専門家がそれを制度として整備するという方法がとられる。緩和医療の理論的先鞭をつけたとされるE・キューブラー・ロスは精神科医である。緩和医療は、筆者は「消極的安楽死」と考えるが、専門家によっては「苦痛除去」という医療の介入があるため、「積極的安楽死」だとカテゴリーする見解もある。厳密なカテゴリー分けをすることもないとすれば緩和医療は安楽死のひとつであり、ある意味「尊厳死」であろう。そして、この緩和医療が安楽死や尊厳死の埒外に置かれて、国内の尊厳死論議が行われているという奇妙なパラドックスもある。これについては後述する。


 簡単に、日本における法治専門家の、この課題に対する関与は大きすぎる。もっと端的に言えば出しゃばりすぎだ。今でも医師がいない在宅死は警察が関与するケースが多い。むろんそれには理由があるが、それも理由によりけりではないか。前時代的で教条的ですらある。


 司法、警察という法治関係者の非専門的科学への関与は、まるで遠慮がない。例えば1962年に起きた、寝たきりで苦痛の最中にある父親を24歳の息子が農薬を与えた「山内事件」では、名古屋高等裁判所が同年に、安楽死が容認される6要件を示している。ここでは5項目目に医師の関与を謳っている。


 日本の文献をみると、この山内事件6要件は、法的な安楽死判時例として評価されることがあっても、国民的議論と、そもそも一方の専門家である医師が関与した判例であるのか、国民の代表が意見を開陳した判例なのかにまるで関心をもっていない。いち裁判所の判断による要件を、歴史のひとつとして受け入れている。


 さらに1991年に起きた東海大病院事件では、6要件に加えて医師が関与する安楽死の4要件を加えた。ある意味、安楽死における医療的要件、つまり医療のサポートの法的要件を示したものとして画期的だとの評価が当時はあったとされる。だが、筆者はこの点でも首を傾げてしまう。


 その評価は、終末期医療に関する考え方の整理が欧米より遅れていることをひとつの根拠としているが、それがなぜ法的専門家によって示される必要があったのかがよく理解できない。


 法的関係者以外が明確にこうした要件整備に関与したとみられるのは06年、富山県射水市民病院事件からである。このときも警察は関係者を捜査、検挙し、結局不起訴としたが、これを契機に終末期医療のガイドラインがつくられるようになったのは周知のとおりだ。ガイドラインづくりが、結局は「不起訴」という刑事罰の避難を前提に進められたということは、この国における「法治」権力のただならぬ大きさを示すと言ってもいいだろう。


●すでに給付の差別は起こっている


 緩和医療は、こうした法治世界の6要件プラス医師の関与4要件を法的ベースにして、ほぼ同時に制度として認知されている。そうすると、緩和医療が医療的サポートとして確立している以上、実は尊厳死はすでに論理的には一応の決着をみているとは言えないだろうか。それでは、なぜ、尊厳死が浸透しているとはいえない状況が続いているのだろうか。そこを整理してみよう。


① 延命医療を定義する議論が不十分である

② 事前指示書に対する、患者、家族、医師の認識が統一されていない

③ 徐々にウェイトが大きくなる認知症患者への対応が議論されていない

④ 法治関係者の制度的アドバイザーに徹するという意識が確立されていない

⑤ 医療経済的な動機を排除すること


 ①は延命医療に関する国民的コンセンサスを早く形成することを提案したい。そしてその理由が、医療費抑制ではないことを徹底的に明らかにしておくこと。少なくとも苦痛の排除と、その時点でとるべき治療手段がないこと、先制的かつ予防的診断治療も尽くされたことを明確化する専門的なガイドラインが必要だろう。


 ②は事前指示書は有名無実であることを合意すること。つまり、あまり意味ある行為ではないことを明確にすべきだと筆者は考える。とくに③の課題で悪用される恐れを筆者は指摘しておきたい。認知症患者もがん患者と同様に、緩和医療の技術的・精神的側面が外挿できないか検討を急ぐべきである。それをしないで放置しているのは、がん患者と、それ以外の疾患で死亡する患者、なかでも認知症患者との、「疾病差別」を容認していることだという認識が必要だと思う。その差別は、すでに医療経済論のなかでも有力な根拠であり、認知症社会保障を迷惑がる年齢差別、社会保障費用の投下動機の差別に実態はつながっている。つまり、すでに給付面での差別は起こっている。


 ④は、法的関係者が尊厳死、安楽死問題に主役としての役割はないことを自覚すべきであることだ。国民的合意を得た部分から、法的な制度整備を図る役割に徹すべきだ。⑤に関しては、給付差別の容認につながる問題で、このシリーズで繰り返してきた。いわずもがなであり、それを言い出した人間にはこの問題に関する発言権はないという認識も共有したい。(終)

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