〈医療過去未来〉事前指示書は必要か――延命医療無用論を考える②

●「死なせてください」は自然死でも尊厳死でもない


 前回から続けて、「死の医療化」を懸念し、事前指示書に強い危惧を抱いている、アイルランドの内科医シェイマス・オウハマニーの著書『現代の死に方』から、オウハマニーの主張を読んでみる。


 彼の主張を探っていくと、現代の医療への向き合い方、あるいは終末期医療の対処の仕方などというものが、一定の教養のようなもの、知的水準を必要としているのではないかとの認識が前提になっているようにみえてくる。そこには、マジョリティの母数に対する誤解があるとの前提が含まれるか、マイノリティはそもそもいないかのようなベクトルで、現代の医療から終末期医療が直線で語られることの危なっかしさが指摘されている。


 死はそもそも医療の延長戦ではなく、もっと哲学的で全人的なアプローチが必要なもので、医科学が前提(科学としての複雑さの前提)となる医療がすべてを決めるものではない、というふうな。


 例えば、「インフォームド・コンセント」の一般化、常識化、普遍化、常備化が、終末期医療にも大きな影を落としていることが推定できるかもしれない。


〔たまに複雑な医療・技術上の問題を患者や家族に説明するのが非常に困難なことがある。「インフォームド・コンセント」は法律至上主義の空想であって、これは本当に“知識のある”、つまり、教育を受け、生物医学的知識のある中流の人たちだけに有効だろう。私たちは「選択」に集中するが、多くの人は選択にとまどうものだ。医療は非常に複雑になり、大多数とは言わないが、多くの高齢者はさまざまな治療の選択肢がよく理解できないようである。この種の書式は、同様の書類もそうだが、受託者が書く傾向があり、臨床医療の現実や不確実性からはかけ離れたものになっている〕


 オウハマニーはこれに続けて、相応の経験を持つ米国での「事前指示書」について、マサチューセッツ総合病院のアンジェロ・ボランディス医師らが進めている「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)に進んでいる状況にも目を配っている。ACPは日本でもすでに普及し始めているのは周知のとおりだ。厚生労働省も2017年の意識調査で認識を問うなど、その普及を進めている。


 ボランディスは医療専門用語をなるべく排し、簡単なビデオで患者が医療の種類を選べるようにした。いわば、インフォームド・コンセントの絵本化かもしれない。


 しかし、こうした手法は、私から見ればどうも危険な印象が付きまとう。それは終末期医療から続く最期の選択まで、医師の指揮下にあり、医療の関与が濃厚なまま外れないということであり、医療者の誘導が簡単に行われるのではないか。死は医療化されるべきではない。終末期“医療”と、終末期の人生の選択、看取りは切り離されるべきものであり、医療者の濃厚な関与による「最期の選択」は、その人に対する敬意と尊厳を確保していると言い切れるのだろうか。


 オウハマニーもこうした懸念を示している。


〔米国の医師は――ふつう家族と対立したときは――事前指示書を無視している。進行が遅い長引く病気では、指示書の内容をいつ行使するかの判断が難しい場合が多い。はっきりしないときは、一般的に、医師と家族は完全介入を選んでいる〕


 彼はそのうえで、終末期医療に関する決定は、選択肢の提示、または「作成」方法に影響されるのではないかとの推測を加える。明確な批判は避けてはいるが、ACPが「わかりやすい」ことは、どこかに誘導、促し(ナッジング)が入りこむ懸念がある。


 それは悪いことかと、私に問う場面も想像できる。しかし、知識がないなどという、こういう場面でのマイノリティへの説明は「わかりやすさ」が優先されるあまり、つまり死に方、あるいはその方法を提示して選ばせるということが適切かどうか、という問題は、スポイルされることを含めて、ずっと孕み続ける。選択できる方法を提示するだけで、それが医療者によるものであればなおさら、背景にある複雑さを隠して誘導的にならざるを得ないのではないか。情報バイアスの典型になりはしないか。


〔ペンシルベニア大学のスコット・ハルバーン医師は行動経済学の概念を用いて、事前指示書の〈初期設定〉が患者の選択に強い影響を与えることを示した。初期設定が〈快適さ〉だと、患者はこれを選びがちになるようであり、他方、初期設定が完全な心肺蘇生法の場合は、多くの患者がこちらを選ぶようだ。表現を「心肺蘇生をしない」から「自然死に任せる」に変えても患者の選択は変化した。ハルバーンはこれを「ナッジング」(促し)と呼んでいる。私が死が近い患者とその家族に対応する医師にとって肝腎な技能を選ぶとすれば、最も患者の助けとなる選択を〈促す〉能力だろう〕


●事前指示書は阻害要因?


「初期設定」からして、ハルバーンの指摘のように、設問側の選択、その順番、あるいは付随する説明によって、患者の選択は転変する。日本におけるACP、事前指示書の世界ではこうしたことへの十分な配慮がなされているのだろうか。まず「自然死」とはいっても、患者に正確なイメージは伝わるのだろうか。そもそも私自身、「自然死」が何で、どのような「最期」をいうのかが理解できていない。オウハマニーは、「私を殺してください」「私を死なせてください」は、どちらも自然死ではないと断じている。


 事前指示書が選び取る世界は、では何なのだろう。自らの状況が理解できなくなったときどうするか、「死なせてください」は自然死ではないとしたら、そこに印象として付随する「平穏死」「尊厳死」も自然死ではない。正解はみえない。こうしてくると、事前指示書や、ACPがある世界自体が、何か余計な阻害要因となっているのではないかとみえてくる。


 それでも今の社会では、とくに日本社会では少子高齢化に対する漠然とした怯えが世論を席巻している。そのために社会保障財源をいかに確保するかが課題として人々の心を多くを占め、「余計な長生き」は次代にツケを残すという考え方の同調圧力に発展している。


 私は、殊に1945年の第2次大戦後の数十年間のうちに、こうした将来予測がどうしてできなかったのかが不思議だ。でも、それには理由がありそうだ。医学や医療が関与しすぎた将来予測は、生物学的な人間の寿命を延ばしただけで終わってしまったのである。それに伴うさまざまな影響にはほぼ無関心か、予測は的外れに終わったのである。


 次回は、そうした状況を日本と米国の比較の中から考えてみたい。(幸)

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