<医療過去未来>事前指示書は必要か――延命医療無用論を考える③

●原理運動化する延命医療不要の認識


 前回、今の社会では、とくに日本社会では少子高齢化に対する漠然とした怯えが世論を席巻しており、そのために社会保障財源をいかに確保するかが課題として人々の心を占め、「余計な長生き」は次代にツケを残すという考え方の同調圧力に発展している――という説を述べた。


 筆者は最近の延命医療嫌悪論は、その同調圧力が最大の原因だと考えている。その考えを後押ししているのは、延命と医療がリンクしているからであり、死が医療化される状況のなかで、医療者が延命医療で収益を上げる傍ら、一方で「無益な医療」――ほとんど不必要な医療と認識されている延命医療行為の“無益さ”をアピールしているのも医療者であることを重視したほうがいいと思う。


 米国で重視され始め、浸透が伝えられる、患者へのナレッジ(促し)は、重大な認識不足、あるいは誤謬、悪口だと批判されても、医療者の恥ずべき人間個々の「生き方」に対する越権行為である、と述べても構わないと思う。医療者は、看取りのスキルを追求、研究、論議しても、人の最期の選択に口出しすべきではない。安楽死への医師の関与はその意味で、スキル追求以上の越権だ。


 そもそも、医療者が医療費の増大抑制を自らが考えるべき使命の第一として、その念頭に置く必要はまるでないはずである。極論を言えば、貧者の病気を診ない医療者は文明の始まりから存在していたし、公平に医療が給付されるべきだとの一般論が常識化したのは近年のことである。その「公平な医療の現物給付」も、実際に実現できているのは少数の国にしか過ぎない。そして、その数少ない国のひとつである日本では、「公平な医療の現物給付」の制度に乗って、医療者、とくに医師はお金持ちになり、ステータスを上げ、誰もが羨む職業となり、高校までの学業成績の上位者のほとんどが医学部をめざすという歪なヒエラルキーを作り出した。


 筆者は医師ではないし、それをめざしたこともなければ、なりたいと考えたこともないが、医師に自らの最期をナレッジされる覚えもない。(まだその立場ではないが)患者として、医療者の上から目線でその死生観を教えられる必要はない。医師を代表とする医療者は、「あなた(家族)は延命医療批判に耳を傾けなくてもいいですよ」「あなた(家族)の思うままに生きるサポートをします」と言うべきであろう。最期のあり方をナレッジするのは、医療者が経済学に敗北し始めているとの自覚を持つべきなのだ。


●医療費増=高齢者の延命医療費の誤解


 第一、現状の延命的医療の多くが、医療費増大の要因のように言われるが、そこにはメディアをはじめとして誤解が介在する。高齢化社会が到来した、それに伴って延命医療費が爆発的に膨張したというというのは、とくにメディアの誤解でしかない。


 それは、21世紀が始まって10年ほどの間に、医療費亡国論が高まったことが背景にある。政府の一部からは、2020年に医療費は50兆円を超え、70兆円となるかもしれないなどという喧伝も行われていた。医療費は確かに増え続けているが、17年度の医療費は42兆円で、さらに伸び率は鈍化している。


「高齢化の直接影響によって急激に増大するのは、介護費用と年金。高齢化により医療費はある程度増加するが、高齢化がさらに進めば、高齢化の直接影響による医療費の増加は鈍化する。『高齢化になるほど医療費がかかる』という通説を覆す実証研究は、すでに2000年に報告されている」(康永秀生著「健康の経済学」中央経済社刊、文中略は筆者)


 との指摘は、客観的な常識として、メディアと市民が持つべきものである。高齢化は医療費を膨張させることはない。必要とされる費用は、終末期までの生活費用、生活支援費用なのである。そこに医療者が主役として踏みとどまり続ける意味があるのか。死生観をナレッジする必要はあるのか。


 康永によれば、米国のメディケアのデータを用いた研究によれば、生涯にかかった医療費に着目すると、70歳時に死亡したグループに比して、75歳、80歳、85歳に死亡したグループの生涯医療費は徐々に上昇する。生きる年数が長いのだから、医療費が少しずつ膨らむのは当然である。しかし、85歳を過ぎると生涯医療費は伸びなくなり、介護にかかる費用が膨らんでくる。


 このデータをみると、平均余命が男女ともに85歳を超える日本において、医療費の増大を根拠に延命医療への忌避的行動、嫌悪感の醸成が盛り上がっている意味が混沌としてくる。延命医療による医療費の増大イメージは医療が作り出し、医療者がその主役として課題視し、そして医療がその権利を手放さない図式があるのではないか。


●「救急車は呼ぶな」の新たな世間体


 筆者はそもそも延命医療をすべきだ、必要があるというスタンスでこの論考を進めているわけではない。どう生き、どう逝くかは当人とその家族の考え方を第一にすべきであり、そこに医療費を背景にした同調圧力や、医療者を中心にしたサポート関係者のナレッジは不要であり、そのナレッジを浸透させるために種々のフェイクに近い情報が蔓延しているのではないかと指摘したいのだ。


 このままでは、延命医療は忌避すべきもの、その診療指針を提示されたら「ノー」が常識として跋扈するのは間違いないはずだ。たぶん、一頃の禁煙運動、嫌煙権騒動のときのように延命医療拒否が原理運動化する状況さえ見えてくる。禁煙運動の原理化はもう定着した。どう生き、どう逝くかを促されたり、強制されたりするのはたまらないと思う。多くの日本人は、クジラ漁に反対し過激な行動をとる欧米の反捕鯨団体の主張は理解できないと思うが、運動が原理的になると、その当初の意味は逆に薄れてくる。


 延命医療拒否の原理運動化の兆しはすでに見え始めている。救急隊が救命措置を拒否される事態が増えているという報道がされたが、家族に救命を断る理由や、延命医療否定の概念の浸透が見えるほか、「救急車なんか呼ぶからだよ」という批判を回避したい、「新たな世間体」が出てきていることを筆者は嗅ぎ取る。そこには、家族が患者の意思を予め聞き取っていること、つまり有形無形に「事前指示」の概念がすでに常識として家庭に挿入されていることを物語っている。


 国は、こうした動向をポジティブな側面から調査までしている。1992年から始めた「人生の最終段階における医療に関する意識調査」は5年おきに17年までに5回にわたって実施されてきた。


 筆者はこの調査を、これまで詳細に検討してきたことはない。それは次回以後にするとして、17年度調査を概観した印象を述べると、まず設問に対する結果の項目タイトルが「医療」で統一されているのに対し、設問自体は「医療・療養」としている。これはあからさまに言えば、医療と療養をグレーに扱って訊いているのであり、全体に終末期に医療をどう受けるかを迫るスタンスが強調されているように映る。調査が何を知りたいかでそのスタンスが柔軟であることに異論はないが、少し説明が付されてもいいように思う。


 次回はこの調査の読み込みから、感じたことをレポートしたい。(幸)

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