昔人の物語(64) 久米島の君南風(ちんべー)「琉球の聖俗両面に秀でた最高神女(ノロ)」

① 久米島は交易上、不可欠の島


 沖縄島から西へ100キロの久米島。久米島、久米島……と思い描いていたら、久米仙人を連想してしまった。久米島には「久米仙」という泡盛もあるし、ひょっとしたら、久米島と久米仙人は関係があるかも……、たぶん無関係と思いながら、『今昔物語』を読んでみた。『今昔物語』は平安時代末期の仏教PRの説話集です。そのなかに、久米仙人の話があります。読んでみましたが、やはり、久米島とは無関係でした。でも、「エロですが、ほのぼの」としたお話なので、掲載しておきます。


 仙人修行の久米は、ようやく飛行術を会得した。空を飛び回っていると、吉野川の岸で、若い女が着物を洗っていた。女はふくらはぎまで着物をたくし上げていた。そのふくらはぎが真っ白なのを見て、久米は心が乱れて、その女の前に墜落してしまった。久米は仙人の力を喪失し、凡人になってしまった。そして、その女と夫婦になった。


 その後、天皇が都(たぶん東大寺)建設のため夫役を集めた。久米も駆り出されて労働させられた。役人が「久米が元仙人で今は凡人」を知る。役人は冗談のように「まだ少しは仙人の能力が残っているかも知れない。この大量の材木を仙人の術で空を飛ばして運べないか。そうすれば、作業が大幅に軽減される」と言った。久米は「仙人の術は忘れました。できません」と断ったが、内心では「もしかしたら、本尊(仏)にお祈りすれば仙人の能力が復活するかも」と思って、「試しにお祈りしてみましょう」と答えた。役人は内心では「馬鹿な奴」と思ったが、「仏に祈ることは尊いことだ」と承諾した。


 久米は7日間、心を込めて祈った。8日目、空が一転にわかにかき曇り、真っ暗になり雷雨となった。すぐに雷雨が止み空が晴れると、大量の木材が空を飛んでいき、建設現場に向かった。役人は久米を敬い礼拝した。そして、天皇に奏上した。久米は田畑を与えられ。そして、久米寺(奈良県橿原市久米町)を建立した。


 久米寺には、その後、弘法大師(空海)が薬師三尊仏を安置した。弘法大師は、久米寺で「大日経」を見つけ、入唐を決意した。ということで、久米寺は大変尊いのである。


 さて、本題の久米島のことですが、沖縄島の西へ100キロに、沖縄県第5番目の面積である久米島(人口約3000人)がある。久米島の西には島はなく、東シナ海があるだけ。


 久米島の西に黒潮が流れています。平均200キロの幅、深さ500メートル、速度毎時10キロの海の中の巨大な川です。往々にして、黒潮は琉球諸島の東を流れていると勘違いしている人が多いのですが、琉球諸島の西です。


 古代から琉球王朝の時代、沖縄島から中国大陸へ行く場合、黒潮を横切るのが最大の難所でした。船は沖縄島から久米島へ行って、一旦、停泊する。そこで、10月~2月の季節風(北風)を待つ。強い北風が吹くと、その風を利用して一気に黒潮を乗りきる。さもないと黒潮に流され漂流船になってしまう。中国大陸から沖縄島へ帰る場合は、夏の季節風(南風)を利用する。中国大陸から黒潮にのり北上し久米島を目視できたら一気に黒潮から離脱する。したがって、久米島は、琉球の交易にとって、最大拠点、不可欠な島であった。


② 琉球の「ノロ」と「ユタ」


 琉球諸島の最古の人類は、約2万年前の港川人(みなとがわじん)であるが、この人々は絶滅したようだ。次が、いわゆる「黒潮民族」で、南の島々から黒潮に乗ってやってきた。琉球諸島を徐々に北上して、沖縄島へ辿り着いた。しかし、一挙に沖縄島へは上陸せず、沖縄島の東5キロにある小さな島・久高島(くだかじま)へ上陸した。久高島と沖縄島を往復して、沖縄島を調査したようだ。先住民がいるかどうか、危険な猛獣がいるかどうか、食料があるかどうか……そして移住可能と判断して沖縄島へ漸次移動した。それゆえ、久高島は琉球の神々及び沖縄人の発祥の地であり、いわば「神の島」です。


 琉球神話の最初の神はアマミキヨで、最初に久高島へ到来した黒潮民族の集団の最高リーダーで、女性(女神)です。5000年前、アマミキヨの集団は久高島を根拠地として、漸次、沖縄島へ移住し、各地に根神(にーがん)、根人(ねびと)を中心とした村をつくった。そのイメージは、根神は女性で祭司長です。根人は男性で小規模グループ長となります。現代人の感覚からすると、「根人=男性=グループ長」のほうが、「根神=女性=祭司長」よりも上位に格付けしたがりますが、古代にあっては絶対的に、神と交信する「「根神=女性=祭司長」が格上で、「根人=男性=グループ長」は日常の事務処理担当者に過ぎません。


 アマミキヨ一族から2000~3000年後には、久高島には最高祭司長「久高ノロ」が君臨するようになった。言うまでもないが女性である。「ノロ」とは、沖縄方言「ヌール」(祈る)が語源です。根神は、次第に「ノロ」と呼ばれるようになった。島によって、「ノロ」ではなく異なる名称で呼ばれたが、それは省略します。


 沖縄島及び各島々に移住したアマミキヨの末裔は、久高島を「最高聖地」と認識し、久高島を遥拝した。いわば、沖縄宗教の総本山である。そして、神の島、久高島の最高祭司長が「久高ノロ」で、その権威は絶大であった。


 16世紀、琉球王朝の第二尚王朝の3代目国王・尚真王(しょうしんおう、1465~1527、在位1477~1527)の宗教改革まで、「久高ノロ」の影響力は、沖縄各地の聖地をネットワークとして絶大であった。


 尚真王は、王権の中央集権化を成し遂げた王である。尚真王の中央集権化は沖縄宗教にも及び、それまでは、宗教的ネットワークの「久高ノロ→各地のノロ」であったものを、王権と融合した「聞得大君(きこえおおきみ)→各地のノロ」という体制に改変した。


「聞得大君→各地のノロ」体制では、ノロはいわば世襲公務員で、琉球全体で約300人が就任した。明治時代の「ノロ公務員」の月給は沖縄での高級公務員クラスであった。「ノロ・公務員」廃止のため明治時代末に退職金が支払われた。


 初代「聞得大君」には、尚真王の妹が就任した。「久高ノロ」は、格下げになった。


 さて、「聞得大君」の下にノロが再編成された。しかも、人数は約300人、公務員だから公務に関する祭司が中心となる。さらに、ノロは死後の世界と関わっていけない、とされた。


 尚真王の宗教改革までは、「根神→ノロ」は実力本位であった。また、需要と供給の関係で、300人よりもはるかに多い「根神→ノロ」がいた。300人に任命されなかった大勢の「根神→ノロ」は、「ユタ」と称されるようになった。また、世襲公務員ノロは、世代を重ねるとともに格式・形式・儀式を重んじて、実質的な霊能力の減少傾向が発生したようだ。そんなことで、民間では、多くの霊能力者ユタが評判を獲得した。


 王権側は、公務員ノロを大切にしたが、民間ユタをボロ扱いし弾圧すらした。しかし、民間ではユタのほうが、はるかに人気があった。

 

③ 八重山列島(石垣島)の乱


 久米島は14世紀頃までは、数人の根神(にーがん)と20~30人の根人が中心の、いわば平和な村落共同体であった。そして、根神の最高神(祭司)は君南風(ちんべー)と呼ばれていた。


 ところが、15世紀になると、武装集団が久米島に乗り込んできた。源氏の落ち武者集団か、平家の落ち武者集団か、沖縄島での政争に敗れた集団か、あるいは倭寇の一派か、あるいは武装貿易商人か……。余談ながら、鎮西八郎為朝(源為友、1139~1170)伝説が奄美・沖縄に多くある。源氏・平家の落ち武者が移り住んだ痕跡かも知れない。


 久米島に乗り込んだ武装集団の実態はわからないが、伊敷索(ちなは)一族と呼ばれ、根人を武力で制圧し、久米島を支配した。租税徴取、城(砦)や館の建設の強制労働、そして、こともあろうに、久米島の聖なる最高峰の山頂に山城(宇江城)を築いた。その事態に、久米島の最高神・君南風は心を痛めていた。


 その頃、琉球王朝の尚真王は、着々と中央集権化を進行させていた。当然ながら、それを嫌がる島も発生する。沖縄島から南西に(台湾に近い)はるかに離れた宮古列島(中心は宮古島)と八重山列島(中心は石垣島)がある。宮古島は比較的従順に中央集権化を受け入れた。しかし、石垣島は反発し、1500年、オヤケ赤蜂(アカハチ)の乱が発生した。八重山列島の首領である赤蜂の独立維持の方針は、八重山列島の全住民の意思でもあった。


 そのため、琉球王朝の尚真王は、軍船大小100艘、兵員3000人を派遣した。その際、琉球王朝の王都・首里(現在の那覇市)の守り神が、「八重山の神と久米島の神は、姉妹である。久米島の君南風を琉球王朝軍に伴いなさい」というお告げをした。


 古文書によれば、遠い昔、3人姉妹の神がいた。上の姉は首里の弁ケ岳(首里城の東1キロ)に住み、妹2人は久米島に渡り、二女は東岳、三女は西岳に住んだ。その後、二女は、八重山列島最大の島・石垣島のオモト岳に住んだ。三女は、そのまま久米島の西岳に住んで君南風となった、それぞれ、首里城の守り神、石垣島(八重山列島)の守り神、久米島の守り神となった、という神話です。ただし、この神話は、オヤケ赤蜂の乱が鎮圧された後に、創作されたという説が強いようです。


 とにかく、王朝軍は久米島へ回り、君南風を軍に加えます。


 軍船が石垣島へ到着した。そして、八重山石垣の全女性祈祷師と君南風の全身全霊をこめた呪術合戦が展開された。琉球の合戦は、実際の男の合戦の前に、呪術合戦が行われます。これを「女は戦の先駆け」と言います。


 八重山石垣の全女性祈祷師は、草木の枝を持ち、天を仰いで叫び祈り、地に伏して祈り叫んだ。大軍を前にしても、まったく恐れすくむことがない。君南風も部下の神女も命がけで船上から呪詛した。女の呪術合戦が終わらないと上陸できない。一昼夜、二昼夜……呪術合戦が続く。そして、君南風に「火の神」が乗り移り、諸葛孔明のような奇策が神託された。竹いかだを造り、その上に竹木をのせて燃やして、放流せよ、という神託である。


 暗黒の夜間、突然、海上に炎が登場した。一心不乱で呪詛している八重山石垣の祈祷師たちは「なんだろう」と驚く。炎が海上を移動していく。それにつられて、八重山石垣の祈祷師たちも移動した。浜から祈祷師たちがいなくなった。つまり、君南風の呪術が八重山石垣の呪術に勝ったのだ。かくして呪術合戦は終了した。ということで、王朝軍は浜へ上陸できた。


 王朝軍は、その浜ともう1ヵ所で上陸し、二手で戦端を開始した。赤蜂(アカハチ)は2方面の戦線に対処できず、敗死した。


 そして、石垣島オモト岳の最高神女マイツバが登場して君南風を訪ねて信服した。それを見て、八重山石垣の全女性祈祷師も信服した。


 なお、赤蜂は石垣島では、今も英雄です。


④ 君南風の権謀術数


 君南風は、戦功によって、高級ノロの役職「大阿母」(おおあむ)が与えられた。先に、尚真王の宗教改革で「聞得大君(きこえおおきみ)→各地のノロ」体制に改変された、と単純に書いたが、少しだけ詳しく書いておきます。


 聞得大君は神職のトップで王の姉妹が就任します。


 その下に、数人の上級神職(名称省略)がいますが、これは王妃や王の子女に与えられる名誉職みたいなものです。


 次に、3人の大阿母志良礼(おおあむしられ)がいます。聞得大君を補佐する実質的な大臣です。その下に各地のリーダーノロが「大阿母」に就任します。聞得大君を除き、ここまでを、「三十三君(くん)」と言います。ぴったし33人いるということではなく、30数人~40数人、という意味です。AKB48もぴったし48人いるわけではなく、それと似た感じの33です。要するに、君南風は、高級ノロ、「三十三君の大阿母」に就任した。


 大阿母の下に、各地域のノロ約300人が国王から辞令をもらう。つまり、公務員です。そして、ノロは世襲制となった。


「三十三君の大阿母」君南風の下には、時期はわかりませんが、久米島の10人のノロが配置された。比屋定ノロ、城ノ口ノロ、宇根ノロ、比嘉ノロ、山城ノロ、儀間ノロ、仲地ノロ、西銘ノロ、具志川ノロ、兼城ノロです。

  

 さて、ここまでの話ならば、ひとりの霊能力者の物語です。しかし、君南風の最大関心事は久米島の住民の幸福です。具体的には、武装集団・伊敷索(ちなのは)一族の武力支配を排除したい、との思いであった。一方、琉球王朝の尚真王にとっても、久米島は大陸との交易で超重要・不可欠な島であった。そのため、伊敷索一族の久米島支配を終焉させたかった。


 君南風は「三十三君の大阿母」という高級ノロに就任した。首里城への出入りも頻繁となり、尚真王との意思疎通も密になった。久米島の情報は君南風を通じて尚真王に正確に伝わり、また、君南風は首里城内の機密も知るようになった。君南風と尚真王は、伊敷索一族打倒で完全一致した。

 

 伊敷索一族とは、具体的には、父・伊敷索按司(あんじ)、長男、次男、三男の笠末若茶良(がさし・わかちゃら)を言う。長男・次男と三男とは母を異にする。そして、 父・伊敷索按司は伊敷索城、長男は宇江城(中城)、 次男は具志川城、三男・若茶良は登武那覇(とんなは)城を根拠地としていた。いずれも堅固な城であった。尚真王は、これらの城を落とすには、単純な力攻めでは相当困難と判断したのだろう。尚真王と君南風は以心伝心である。君南風は、伊敷索一族の内部分裂を仕掛けた。それは、「ほめ殺し」とでも言う奇策である。君南風は、神歌(オモロ)で、三男・若茶良をたたえた。


  かさすちゃらは

  だじりよ 鳴響め(とよめ)

  見れば 水回て

  又 真物ちゃらは

  又 なごの浜に

  又 なごのひちゃに

  又 大和ぎやめ

  だじりよ 鳴響め


 その意味は、笠末若茶良は、ますます鳴り響け、見れば水もしたたるイイお顔、立派な若茶良は、なごの浜に、なごの地に、さらに大和まで、ますます鳴り響け。


 若茶良をたたえる神歌(オモロ)は、これひとつだけでなく、他にもいくつかあるようです。単に、若茶良の歌が大ヒットした、若茶良が美男子、若茶良の人気がものすごく高い、というレベルではない。若茶良が伊敷索一族のトップに立ち、その名声は沖縄島から大和にまで鳴り響く、という権力動向の予測である。裏を返せば、父と長男・次男を乗り越えて、三男が伊敷索一族のトップ、久米島の権力者になる、というわけである。


 当時の感覚は、現代では想像できないほど、神歌、神託の権威は高く、必ず実現すると信じられていた。例えば、第二尚王朝第3代目・尚真王が王位に就いたのは、神託によるものであった。第1代目が死亡した。実子の尚真は幼いので、1代目の弟が2代目に就任した。しかし、1代目の後妻、尚真の母であるオギヤカ(1445~1505)は、神託によるクーデターを実行した。すなわち、首里城内のノロ全員が、すぐさま幼い尚真が王に就くべきと神託を告げた。そのため、2代目は神託直後に退位して、幼い尚真が3代目に就いた。そして、実権はオギヤカが握った。


 君南風は、「神託が政治権力に決定的な影響を及ぼす」ということを首里城で深く認識したのだろう。若茶良を称える神歌は当然に、父・伊敷索按司、長男、次男の耳に入る。そして、「三男・若茶良の謀反」=「若茶良と首里の密約」を疑う。疑いは確信に至る。そして、父・長男・次男の連合軍は若茶良の登武那覇城へ押し寄せ、合戦となる。若茶良は顔がいいだけでなく、武勇も優れていて、その合戦では若茶良の奮戦で若茶良軍が勝った。しかし、2回目の合戦では敗退し、自害した。君南風の奇策「ほめ殺し」は、みごとに成功したのである。


 伊敷索一族の内部抗争は、伊敷索一族の力を減少させた。すかさず、沖縄島首里の尚真王は、討伐軍を派遣した(1507年)。


 長男の宇江城は、堅固な山城である。その石垣職人は、「具志堅三兄弟」であった。具志堅三兄弟は伊敷索按司の家臣でもあった。理由はわからないが、伊敷索按司は具志堅三兄弟に不信を抱き、暗殺しようとした。それを察知した具志堅三兄弟は逃亡生活となった。そこへ、首里討伐軍がやってきた。具志堅三兄弟はそれに合流した。具志堅三兄弟は宇江城を熟知している。そのため、堅固な城も簡単に落城した。


 次男の具志川城は、三方が絶壁の天然要塞である。ここも、伊敷索按司の幹部家臣「よなふしのひや」の裏切りで、あっけなく陥落した。伊敷索按司と長男は生き残ったらしいが、行方知れずとなった。殺害されたという話はない。基本的に平和な島なのだ。


 こうしてみると、君南風の「神歌」が契機で三男・若茶良の敗死の頃には、久米島の各地のリーダーたちは、「伊敷索按司は終焉に近い。久米島は、まもなく首里の王朝の支配地域になる」と予想していたのだろう。そして、予想の背後には君南風がいたであろう。


 そんなわけで、君南風は、祈祷だけではなく俗界にも大きな影響力を発揮し、久米島の平和を再構築した女性と言えます。君南風の数々の超能力・奇跡伝説に関しては省略します。


 なお、久米島では、今も第何代目かの君南風が祭事を取り行っています。数年前(2014)年秋、雨が降らず断水となった。この時、君南風が海岸で雨乞いの儀式をした。町長も参列した。そして、本当に雨が降った。


 余談ですが、プロ野球の楽天は、久米島キャンプをする場合、君南風神殿を参拝する。勝利の女神と認識されているのでしょう。


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太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。

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