『週刊誌のツボ』 ★“反射的な犯罪”を反射的に叩く

 本は相変わらず売れないし、雑誌の部数減少にも歯止めがかからない……。出版業界の知り合いと顔を合わせれば、決まってそんな愚痴になる今日この頃だが、ここ数日、日韓摩擦と同程度に“それ一色”になっている「煽り運転問題」の過熱報道ぶりを見るにつけ、「さもありなん」とため息が出てしまう。


 確かにあのニュースには、見る者の感情を掻き立てる破壊力がある。だが、結局のところそれは「映像の力」だ。「このハゲー!」の絶叫で一時期ワイドショーを賑わせた豊田真由子議員の問題は、音声の存在がミソだったが、今回も似たような話である。


 もし映像がなかったら、新聞のベタ記事にもならなかった煽り運転による暴力沙汰。にもかかわらず、あのカップルは下手な殺人犯よりも有名になってしまった。高速道で車を停め、獣のように食ってかかる主犯の男性と、ヘラヘラとその横でガラケーをかざすサングラスの女。見る者が嫌悪感を抱くには十分の映像で、こうなると刑法上の罪の重さは二の次、三の次、“世間”がもう2人を許さない。


 文春の記事は『あおり運転犯エリート“暴走人生”』、新潮も『戦慄事件の二の舞を避ける方法とは!? 「あおり運転」ボコボコにされた被害者の教訓』と特集を組んでいる。私の脳内で、この話が“活字離れ”と結びついたのは、何千字、何万字を費やした深刻な事件のレポートも、衝撃的な録画、録音のある“そこそこの事件”のインパクトにはかなわない、と痛感したためだ。時間をかけ文字情報を読み解くより、視覚や聴覚の一瞬の感覚で、人々はより強く感情を揺さぶられる。“活字の無力さ”を否応なく感じてしまうのだ。


 個人的に興味深いのは、今回の主犯の男性が、カネ目当ての「当たり屋」でなく、「マナーの悪い運転手を懲らしめる」歪んだ正義感を動機とした点だ。そう言えば、あの川崎の児童殺傷事件の容疑者も、SNSでネトウヨ的にヘイト書き込みをしていた人物だし、さかのぼれば相模原の障碍者大量殺人事件の容疑者もそうだった。


 ここで感じるのは、こうした独善的犯罪者と、それに怒る“世間”との類似性である。どちらも限られた断片情報で反射的に攻撃的になる。罵詈雑言をネットに書くだけで留めるか、その怒りを傷害や殺人にまでエスカレートさせてしまうのか。そこにはハッキリと線が引かれるが、乏しい情報で“瞬間湯沸かし器”的に怒り狂う点で、両者は比較的近いところにいる。


 8月22日付の朝日新聞に政治学者・豊永郁子さん(早大教授)の興味深い論稿が載っていた。アメリカのトランプ支持層の分析で、当初指摘されたようなプアホワイトの怒り、などという理由は実際には当てはまらず、所得も階級も支持・不支持とは無関係。結局は「権威主義」か否かという心理的傾向のみが影響することがある調査でわかったという。ここで言う「権威主義」は、異なる価値観への不寛容を指す。詳細は省くが、たとえば子育てで重視する項目を聞く質問で、「行儀のよさ」を重視する人は権威主義、「思いやり」を重視する人は反権威主義、とハッキリ傾向が出るらしい。


 何が言いたいかというと、思いやりは“他者への洞察”と言い換えられること。異質な対象を攻撃する前に、十分な情報をあれこれ得ようとする、相手側の立場も慮ってみる(=洞察する)。そういった熟慮が反トランプ的な姿勢なら、洞察を軽視するトランプ支持層はもっと直感的に他者を排撃する。つまり、書物を読み、長い文章に親しむ習慣は、洞察力の涵養につながる行為だから、反権威主義的ということになる。


 というわけで、断片情報で反射的に他者を攻撃する“歪んだ正義感の暴走”は、どこかで活字離れともつながる権威主義的な現象ではないか。何とも芋づる式の連想、“直感的な推測”だが、何となくそんな気がするのである。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。

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