昔人の物語(65) 内山愚童「大逆事件で死刑になった禅僧」

(1)大逆事件


 大逆事件は4事件あった。1910年の幸徳秋水事件、1923年の虎ノ門事件、1925年の朴烈事件、1932年の桜田門事件(李奉昌事件)である。虎ノ門事件と桜田門事件は現行犯逮捕。朴烈事件は、具体的計画は何もなかったが「大逆テロをしたい」という強烈な意思を有していた。


 幸徳秋水事件は、具体的計画があった(4人の共謀)が、政府は社会主義者、無政府主義者の一網打尽、根絶を目論み、大々的でっち上げによって、無関係な者(例えば、幸徳秋水と付き合いがあっただけの者)も一斉逮捕した。そして12人を死刑とした。


 一般的には「大逆事件」とは、幸徳秋水事件を指すことが多い。歴史的に極めて大きな影響を与えたからである。


 とりあえず、大逆事件(幸徳秋水事件)のあらましを。


 宮下太吉(甲府出身の機械工)は愛知県の鉄工所に勤務していた時、革命思想に共感したようだ。学者は、革命思想を社会主義、キリスト教社会主義、無政府主義、共産主義などに分類することに熱心だが、そもそも、そうした政治思想がバラバラごちゃ混ぜに輸入されたから、よほどの学者でない限り、普通人にとっては「ごちゃ混ぜ革命思想」と言ったほうが適切だと思う。基本的には耐え難い貧困、不平等、不幸のまん延、戦争反対への憤りがベースにあったことは間違いない。


 1908年(明治41年)、宮下太吉は、明治天皇のお召し列車が東海道本線の大府駅(愛知県大府市)に来た時、集まった群衆に革命思想の小冊子を配った。その小冊子(本文15ページ)とは、内山愚童の『入獄記念・無政府共産・革命』である。その内容は後述します。宮下は50冊配ったが、結果は、誰も関心を示さなかった。


 そのため、群衆の目を覚ますには、天皇の迷信(天皇=神)を打破する必要がある。群衆の面前で天皇に爆裂弾を投げつけて、天皇も血を流す普通の人間に変わりないことを周知させよう。そして、爆裂弾の製造法を研究し始めた。


 1909年(明治42年)2月、宮下太吉は仕事の関係で上京した際、幸徳秋水を訪ねて、自分の考えを披露したが、幸徳は賛意を示さなかった。ところが、幸徳と同棲していた管野スガ(かんのすが、1881~1911)は、大いに関心を持った。管野スガは、まさに波乱万丈の一生で興味をそそるのですが、それは省略します。管野スガは、宮下の爆裂弾計画を踏まえて、宮下に新村忠雄と古河力作を推薦した。


 1909年(明治42年)6月、宮下は長野県明科町(現在は安曇野市明科)の官営製材所に転職する。宮下は警察にとって要注意人物であったが、当時は、優秀な機械工は引く手あまたであった。宮下は、長野県明科町で爆裂弾の研究をし、材料調達を新村忠雄に依頼した。そして11月3日夜、明科山中で試作品の爆裂実験をした。11月3日は天長節(天皇誕生日)で花火が打ちあがるので、爆裂弾の音もばれないと考えた。実験は成功した。


 1910年(明治43年)となり、あれやこれやの経過の後、5月17日には宮下、管野、新村、古河の役割分担のくじ引きがなされ、管野スガが爆裂弾第1投の役に決まった。しかし、5月20日に宮下の自宅が家宅捜査され爆裂弾の材料(ブリキ缶)が発見され、5月25日に宮下と新村が逮捕された。この日以降、大勢の社会主義者・無政府主義者が逮捕された。管野は肺病を患っていたので、幸徳と管野は湯治治療のため湯河原にいた。6月1日、2人は逮捕された。合計26人が逮捕された。


 まともな取り調べ、まともな審理もない「最大の暗黒裁判」がなされた。翌年1911年(明治44年)1月18日に、死刑24人、有期刑2人の判決が下された。そして、翌日、死刑判決のうち12人が恩赦で無期懲役に減刑された。徳冨蘆花は、「お上にも情けがある」とミエをきるために、ピッタシ半分の12人にしたと喝破した。そして、1月24日に11人が絞首刑となった。1月25日に1人(管野スガ)が絞首刑となった。


 絞首刑となった12人は次のとおり。幸徳秋水、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、森近運平、奥宮健之、大石誠之助、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童、そして菅野スガである。


 無期懲役12人のうち、5人が獄死した。7人は仮出獄できた。


 1911年1月25・26・27日の3日間、帝国議会衆議院予算委員会において、大逆事件の弁護士を務めた衆議院議員花井卓蔵は内務大臣および司法大臣に対して質疑を行った。その内容は、国家権力による「大陰謀事件」ということである。花井と同じような感覚の識者は、それなりにいたようだ。しかし、身の危険を直感したのか、表立っての行動はほとんどなかった。例えば、森鴎外は『大塩平八郎』で、間接的な国家権力を批判し、反乱者への同情を著した。石川啄木はピョートル・クロポトキン(無政府主義の大者)を研究して『時代閉塞の状況』で間接的に国家権力を批判した。


 そんななか、徳冨蘆花(1868~1927)は、幸徳秋水らの死刑を阻止するために嘆願書を送ったりした。そして死刑の1週間後、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)で『謀反論』と題して講演した。「死刑ではない、暗殺である」と国家権力を真っ向から非難した。この講演を依頼した学生が、河上丈太郎(戦後、社会党委員長)や森戸辰男(戦後直後の社会党政権の文部大臣)らであり、矢内原忠雄(戦後、東大総長、無教会キリスト教主義の指導者)ら多くの学生に感動を与えた。


 講演を許可した校長・新渡戸稲造は、けん責処分を受けた。「けん責処分」は懲戒処分の中の一番軽い処分である。なお、『謀反論』は文庫本で売られています。徳冨蘆花と言えば、ベストセラー小説『不如帰』だけが有名ですが、政治史にご関心のある方は『謀反論』を読んでください。蛇足ですが、私の住む杉並区と南の世田谷区の境に京王線の芦花公園駅があり、その近くの蘆花公恒春園があります。閑静で、ぼんやり思いにふけるのに最適の場所です。


 参考までに、『謀反論』の要の部分を掲載しておきます。


「彼らは乱臣則賊子の名を受けても、ただの賊ではない、志士である。……彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身をささげて人類のために尽くさんとする志士である。謀反人12名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された12名はかえって死をもって我が皇室に前途を警告し奉った真忠臣となってしもうた。……天の目からは正しく謀殺――謀殺だ。……12名はほとんど不意打の死刑――否、死刑ではない。暗殺――暗殺である」

「新しいものは常に謀反である。……生きるために謀反しなければならぬ。いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。……諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀反しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」


 大逆事件に関しては、戦後になって多くの研究がなされ、現代では、富国強兵策の矛盾、階級闘争の激化、労働争議の日常化、大衆暴動の続発の社会状況に危機感を深めた国家権力が、幸徳秋水ら社会主義者たちの革命運動を撲滅させるための「捏造した政治的一大陰謀事件」である、というのが主流的見解である。


(2)禅僧となる


 1874年(明治7)、内山愚童は新潟県魚沼郡小千谷(現在は小千谷市)で生まれる。父は宮大工である。当時は、廃仏毀釈運動や寺社領上知令(境内以外の土地を没収)によって、寺院はボロボロ状態であるから、父は仕事がなく、困窮生活であった。内山愚童の家だけでなく、少年期の小千谷地方の農民はどん底状態で、乞食になる者、自殺する者も珍しいことではなかった。


 1885年(明治18年)、小千谷小学校を卒業。その際、成績優秀で県知事の表彰を受ける。しかし、貧苦の境遇は変わらない。父が死亡し、弟が奉公に出た。いかなる事情かわからないが、1893年(明治26年)に、母と妹を残して、小千谷を出る。どこでどうしていたのか不明の数年間が流れる。


 1897年(明治30年)初春、神奈川県愛甲郡三田村(現在は厚木市)の曹洞宗清源院で住職を務める叔父の青柳賢道を訪ねた。そして、曹洞宗への入門の決意を述べた。おそらく、小千谷だけではなく、各地で悲惨な民衆を目にしたのだろう。どうすれば、彼らを救うことができるか、この大問題の解答は、有りや無しや。おそらく曹洞宗の禅に解答を見出せるかも……と直感したのだろう。言うまでもなく、曹洞宗は道元が開祖である。


 叔父の青柳賢道は、22歳の内山愚童を、青柳賢道の弟子である坂詰孝童に託した。坂詰孝童は神奈川県愛甲郡小鮎村(現在は厚木市)の宝増寺の住職である。そこで得度して、1897年10月に、神奈川県足柄下郡早川村(現在の小田原市早川)の海蔵寺の佐藤実英老師の指導を受ける。青柳賢道、坂詰孝童、佐藤実英老師は、内山愚童の熱意、才能、人柄を見抜いたのだろう。神奈川県足柄上郡松田村(現在は松田町)の延命寺の曹洞宗第二中学林本科で6ヵ月間、曹洞宗の教義、仏教の一般知識、仏教以外の一般教養を学んだ。しかし、内山愚童がいかに頭脳明晰でも、6ヵ月間の中学林では、仏教学を専門的に学んだとは言い難いかもしれない。なお、学林(がくりん)とは、仏教寺院の学習所で、当時の曹洞宗では、中学林の上に大学林があった。なんにしても、中学林を卒業して海蔵寺へ帰り、佐藤実英老師の下で禅僧としての修行を行った。


 1902年(明治35年)の7月頃には、内山愚童は神奈川県足柄下郡箱根町大平台の林泉寺の事実上の住職後継者となる。住職は高齢かつ病気なので看病しながらの仕事であった。


 当時の寺はおしなべて葬式仏教に堕落して、仏教の教え、宗祖の教え(曹洞宗なら道元の教え)を日常生活に生かすことに無頓着であった。内山愚童が林泉寺の檀家総代へ出した覚書に、「葬祭仏事ヲ為シテ足レリトセバ、之レ曹洞宗ノ面目ヲ汚スノ甚ダシキノミナラズ、諸氏ノ身ニトリテモ馬鹿ラシキノ極ト云フベシ」とある。愚童は、寺子屋学級で教えたり、青年組合を結成したり、いわば社会教育を実践した。今でこそ大平台は温泉で繁盛しているが、当時は温泉もなく、耕作地も劣悪で、わずかに木工品で成り立っている貧しい地域であった。戸数は僅か40戸であった。


 1904年(明治37年)2月、正式に林泉寺の住職となった。30歳であった。時は日露戦争(1904.2~1905.9)前夜であった。


(3)内山愚童の『予は如何にして社会主義者となりし乎』


 日露戦争の勃発可能性大という時期、新聞『万朝報』は非戦論を展開していた。ところが突然、『万朝報』は開戦論に転換した。理由は、開戦論のほうが新聞が売れると判断したのだ。そのため、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らは退社して、平民社(社会主義普及のための新聞社)を設立し、1903年(明治36年)10月、週刊の『平民新聞』を創刊した。創刊号の巻頭には「宣言」が掲載された。


一、自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也。

一、吾人は人類の自由を完かしめんが為に平民主義を奉持す。故に……。

一、吾人は人類をして平等の福利を受けしめんが為に社会主義を主張す。故に……。

一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為に平和主義を唱道す。故に……。

一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に……。


 ご承知のように、フランス革命(1789年)の旗印である「自由、平等、博愛」を高らかに宣言したのである。


 内山愚童は、『平民新聞』創刊号の「宣言」を読んで、「自分の考えと同じだ」と大感動した。


『平民新聞』の第2号に「予は如何にして社会主義者となりし乎」の原稿募集があった。内山愚童は応募した。それが、『平民新聞』第10号(1904年1月17日号)に掲載された。


「余は仏教の伝道者にして、曰く一切衆生悉有仏性、曰く此法平等無高下、曰く一切衆生的是吾子、之れ余が信仰の立脚地とする金言なるが、余は社会主義の言ふ所の金言と全然一致するを発見して 遂に社会主義の信者となるものなり」

 

「一切衆生悉有仏性」は、仏教を少しでも学んだ人なら誰でも知っている超有名な言葉で、いろんな経典に書かれてある。意味は、一切の衆生にはことごとく仏性がある、というものである。


「此法平等無高下」は、愚童の記憶違いで、正しく「此法平等無有高下」か「本来平等無高下想」であろう。膨大な経典を開いて確認せずに書いたのだろう。「此法平等無有高下」を和訳すると「この法は平等にして高下有ることなし」となる。これは、禅宗の公案になっている。「経典には平等と書いてあるが、現実は高下(つまり差別)がある、さあ、答えてみよ!」といった感じかな。「一切衆生的是吾子」の「的」は「皆」の誤りであろう。意味は、一切の衆生は皆仏様の子である、ということです。


 この3つの仏教用語と、自由・平等・博愛との関係は、どうか。これの論理的な解説をしようと思ったのですが、長い論文になりそうなのでやめておきます。簡単に言って、仏教の教えも、自由・平等・博愛と同じである。貧困・病気などで苦しむ人々を救済することが仏教の務めであり、そのためには自由、平等、博愛が必要不可欠である、そんな感じである。


 当時、キリスト教社会主義が盛んだったが、内山愚童は「予は如何にして社会主義者となりし乎」において、いわば「仏教社会主義」を宣言したのである。


 愚童は、『平民新聞』で「予は如何にして社会主義者となりし乎」を発表した(1904年1月17日)だけでなく、『平民新聞』に「貴族・富豪を社会主義に感化する手段」「兵士の母」「箱根大平台より」と連続的に寄稿した。言論だけでなく、大平台の村民30余名に消費組合など社会主義の話をした。これは、具童が構想する「夏季平民倶楽部」の第一歩であった。徐々に、内山愚童に名は広まっていき、社会主義者の交流も始まった。1905年(明治38年)8月、内山愚童は初めて幸徳秋水と対面した。


 当時の曹洞宗のみならず仏教界は、葬式仏教に堕し、しかも仏教五戒の不殺生戒(ふせつしょうかい)を大規模に違反する日露戦争(1904.2~1905.9)に大賛成であった。そんななかの愚童の心境は、真宗大学(大谷派)の研究生である伊藤證信への書簡(1905年11月頃)に書かれてある。伊藤證信は伝統仏教を批判して「無我苑」を開き、機関紙『無我の愛』を発行していた。


「魔窟より発する本山の偽法には堪えられません。……本山から住職罷免のあるまでは無我の真理を剣として、一生懸命に戦う覚悟で居りますが、今は四面楚歌の声で、いつ落城するやわからない……請う同情あれ……」


 信念はあれども、勝てる見込みなし、ああ困った、どうしよう……って感じかな。


(4)秘密出版


 明治政府の言論・表現の自由の圧迫は、1869年(明治2年)の「出版条例」を出発点として、1875年(明治8年)の「讒謗律・新聞紙条例」、1880年(明治13年)の「集会条例」、1887年(明治20年)の「保安条例」、1893年(明治26年)の「出版法」、1900年(明治33年)の「治安警察法」と積み重なり、言論の自由、表現の自由、出版の自由、結社の自由はジワリジワリと圧殺されていった。


 1901年(明治34年)、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成された。創立者は、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光二郎、木下尚江、河上清の6人である。幸徳秋水以外の5人はキリスト教である。第4次伊藤内閣は、即日禁止とした。


 先に述べたように、1903年(明治36年)10月、平民社が設立され、週刊の『平民新聞』が創刊された。


 日露戦争(1904.2~1905.9)を経て、1906年1月、首相に西園寺公望が就任した。西園寺は社会主義全面禁止ではなく、穏健な社会主義を容認する姿勢をとった。その結果、「日本社会党」が結成された。しかし、硬派(暴力革命派)と軟派(合法的に政権獲得)に対立・分裂した。その結果、1907年6月「赤旗事件」が発生した。この事件は、軟派に対して硬派が赤旗を振りかざしてデモンストレーションしただけだったが、警官が割って入って赤旗を奪おうとしたため乱闘になって16人が検挙された。そして6人に重禁錮1年6ヵ月~2年6ヵ月という判決が下された。たまたま幸徳秋水は郷里の高知県にいたため無事だった。指導的な社会主義者(荒畑寒村、大杉栄ら)が刑務所に行ってしまったため、幸徳秋水が社会主義運動の中心を占めるようになった。

 

 言論弾圧、社会主義結社の弾圧の時代となり、1908年5月愚童は秘密出版を計画する。1908年8月、幸徳秋水が林泉寺を訪れる。秋水の林泉寺訪問によって、警察は愚童を一級の要注意人物とした。秋水は、色分けすれば、硬派(暴力革命派)に属するが、暴力行使は時期尚早で、現時点では文書配布などによる啓蒙が第一と考えていた。愚童は、革命方法として、不服従主義を構想していた。イメージするなら、ガンジーである。そして、やはり、文書配布などによる啓蒙が第一と考えていた。


 1908年9月に、愚童は印刷機械、活字などを購入して、箱根大平台の林泉寺へ運びこむ。10月には『入獄記念・無政府共産・革命』を秘密出版し、『平民新聞』の全国読者へ発送する。そして、前述したように、宮下太吉が『入獄記念・無政府共産・革命』を読んで感動し、11月に明治天皇のお召し列車の通過の群衆に、同書50冊を配布した。


 11月には『道徳悲認論』を秘密出版する。さらに同月、『帝国軍人座右之銘(新兵諸君に与ふ)』を秘密出版する。


 1909年(明治42年)1月、幸徳秋水宅を訪れる。その際、宮下太吉の爆裂弾による明治天皇暗殺計画を知る。愚童にとって、あまりにも馬鹿らしい計画なので、「親父(明治天皇)よりもセガレ(皇太子)のほうが警備が薄い。セガレをやっつければ親父は驚愕して死んでしまう」と放談した。その後、数回、宮下の爆裂弾計画が話題になったようだ。そのつど、愚童は大笑いしながら同じようなことを言った。愚童にとって笑い話に過ぎなかったのだ。


 警察は『入獄記念・無政府共産・革命』などの出版物の版元が愚童であることを突き止めた。1909年5月、出版法違反で逮捕される。逮捕の数日後、林泉寺でダイナマイトが発見され爆発物取締罰則違反が付け加わった。裁判は傍聴禁止、公判内容不明という秘密裁判であった。愚童がダイナマイトを隠し持っていたことは、大いに疑問で、でっち上げかもしれない。11月に判決、出版法違反で禁錮2年、爆発物取締罰則違反で懲役10年であった。控訴したが、1910年(明治43年)4月に、2つ合わせて実刑7年の判決が確定した。


 そして、5月から大逆事件の検挙が始まった。服役中の愚童は大逆罪被告として追起訴された。


1911年(明治44年)1月18日、死刑判決。1月24日、死刑執行。


(5)『平凡の自覚』……愚童の思想その1


 愚童の『平凡の自覚』は、いつ書かれたのか不明である。出版物や書簡ではなく、原稿が残っているだけである。


 愚童の思想の根底は『平凡の自覚』である。「平凡」の単語のイメージは、平均的な収入で大事件に遭遇しない幸福な生活、といったものと思うが、愚童の言う「平凡」は仏教そのもの禅宗そのものである。愚童の言う「平凡」とは「真実の自己」を意味する。


 道元の『正法眼蔵』の最初のほうの目次に「現成公案」がある。そこに、次のような文章がある。


 仏道を修行するというのは自己を修行することである。自己を修行するというのは、自己を忘れることである。自己を忘れることとは、万法から実証されることである。万法から実証されることとは、自己の身心および他己(自分の中にある他人)の身心が脱落させるのである。


 何なんのことだかわからない。あっさり言うと、「世間一般で言う普通の自己」と「真実の自己」があって、「世間一般で言う普通の自己」を捨て去ると「真実の自己」が登場してくる。「真実の自己」=「仏性、本来の面目、真如」である。これに目覚めれば、お互いを尊重するようになる。家庭も村も市町村も、みんな平和な生活になっていく。夢物語のようだが、禅者・仏教者の愚童にとっては、基本中の基本であった。

 

(6)『入獄記念・無政府共産・革命』……愚童の思想その2


「入獄記念」とは、赤旗事件で多くの社会主義者が入獄した記念という意味である。


 愚童は文書配布などによる啓蒙が第一と考えていたので、この小冊子は、実にわかりやすく書いてある。


 人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君……この人間の一番大事な食物を、作ることに一生懸命働いておりながら、くる年もくる年も、足らぬ足らぬで終わるとは、何たる不幸の事なるか。


 小作人は三つ迷信の虜になっている。①地主から田畑を借りているから小作料を払わねばならない。②政府があるから安心して仕事ができるから税金を払わねばならない。③国に軍備がなければ外国人に殺されてしまう。だから、若者を兵士に出さねばならない。


 この三つ迷信から解放されれば、➀小作料は払わなくていい、②税金は払わなくていい、③兵士を出さなくていい。


 1908年(明治41年)1月頃までは、愚童は理想社会をつくるには、どうしたらいいか迷っていた。「数珠や経巻」だけではダメだ。「爆裂弾かピストルか」それとも、他に方法はあるか、と悩んでいた。しかし、その年の春から夏にかけて、「不服従」という抵抗運動に行き着いたのであった。


 単純である。➀小作料は払わなくていい、②税金は払わなくていい、③兵士を出さなくていい。これを皆が実行すれは、自動的に、地主はいなくなる、政府もなくなる。政府がなくなれば戦争もなくなる。無政府共産が出現する。無政府主義がとても平易に書かれてある。


(7)内山愚童の復権


 内山愚童の逮捕、死刑に際して、曹洞宗は完全に明治政府の下僕であった。言うまでもないが、曹洞宗は1945年(昭和20年)の敗戦まで、戦争協力であった。宗祖道元はあの世で嘆き悲しんでいたであろう。


 遅ればせながら、少しは反省の心があったようだ。


 1979年(昭和54年)1月24日、内山愚童の命日に、林泉寺で、「内山愚童を偲ぶ会」が発足した。


 そして、1993年(平成5年)、曹洞宗は内山愚童の名誉を回復させた。


 2005年(平成17年)、曹洞宗は「顕彰碑」を林泉寺に建立した。


 そんな程度でいいのだろうか。道元の「只管打坐」を座禅だけをしていれば現実社会を見て見ぬふりをしていてもいい、とでも思っているのだろうか。


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太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。

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